| 名称 |
所在地 |
内容 |
| 加曽利貝塚 |
千葉市 |
直径170mと130mの環状貝塚が8字形に連結しており、日本最大の規模で、縄文中期から後期の典型的集落跡。隣接した加曽利博物館には、出土品や復元した竪穴住居が展示されている。 |
| 上総国分寺・尼寺跡 |
市原市 |
聖武天皇の勅願により全国60余国に建立された国立寺院の一つ。僧寺は全国2位、尼寺は全国1位の規模をもち、奈良時代を代表する遺跡。 |
| 二子塚古墳 |
市原市 |
水田地帯にある主軸長102mの前方後円墳で姉崎古墳群を代表する古墳。5世紀中ごろの築造と推定されている。精巧な直弧文が施された石枕、銅鏡など多くの遺物が出土した。 |
| 姉崎天神山古墳 |
市原市 |
姉崎丘陵上に点在する姉崎古墳群中最大規模の前方後円墳。主軸長約125mで、4世紀末ごろの築造と推定される。古墳時代の房総を解明するうえで重要である。 |
| 堀之内貝塚 |
市川市 |
縄文後期から晩期の東西約225m、南北120mの馬蹄形貝塚で、発見された土器は、堀之内式土器と呼ばれ、土器の編年上の基準となっている。隣接地に市立市川考古博物館があり出土土器などが展示されている。 |
| 二十世紀梨誕生の地記念碑 |
松戸市 |
明治21年市内大橋の松戸覚之助氏によって発見、育成された二十世紀梨の誕生を記念したもの。 |
| 山崎貝塚 |
野田市 |
直径約130mの馬蹄形貝塚で、現在は畑地となっており、原形をよく留めている。縄文中期から晩期に至る長期間集落があったと推定され、各型式の土器や竪穴住居跡22軒が発見されている。 |
| 将門の井戸 |
我孫子市 |
平将門が開いたと伝えられる井戸。今も灌木の茂みの中に静かに水を湛える。付近には、将門を祭神とする将門神社がある。県北部から茨城県にかけて将門の伝承が多く、その一つと考えられる。 |
| 関宿城跡 |
関宿町
(野田市と合併) |
関宿城は明治初期に取り壊されて、城跡も大部分が河川改修で消えたが、本丸跡に建つ城跡碑が名残を留める。城下町関宿を象徴する記念碑である。 |
| 獣医学実地教育発祥地 |
成田市 |
明治の殖産興業の一つとして、牧畜の振興を図るため三里塚に取香種畜場を開いたことに始まる。後に下総種畜場となり獣医学実地教育の場となった。 |
| 四街道地名発祥の道標 |
四街道市 |
四街道十字路にある明治12年銘の石の道標。四つの街道の中心であり、地名発祥の由来となっている。 |
| 本佐倉城跡(根古谷城) |
酒々井町 |
文明年間(1469〜89年)に千葉介輔胤が築城し、天正18年(1590年)に小田原北条氏と共に滅亡するまで、千葉家の宗家として、百有余年間9代にわたった。深い堀跡の一部や郭跡が確認でき、わが国城址の中でも旧態をよく伝えている。 |
| 富里牧羊場跡 |
富里市 |
明治8年、殖産興業の一つとして、羊毛の国内自給を図るため、わが国で初めて牧羊場を開設し、米人指導者を迎え羊の飼育が行われた。西洋式牧畜発祥の地。 |
| 西の城貝塚 |
神崎町 |
縄文時代早期初頭に属し、わが国でもっとも古い貝塚。尖底土器や石斧などが出土したほか竪穴住居跡も確認された。 |
| 良文(よしぶみ)貝塚 |
小見川町 |
利根川下流域では最大規模であり、貝層の堆積が厚く、3mを越す所もある。他の貝塚が、縄文中期で終るのに後・晩期まで継続している点などが注目され、出土遺物も豊富である。特に人物意匠をもつ香炉型顔面付土器は極めて珍しいもの。 |
| 宮谷(みやさく)県庁跡 |
大網白里町 |
明治2年大網宿宮谷の本国寺を庁舎とする宮谷県が設置され、明治4年の廃藩置県までの約2年9ヶ月余り行政を行った。管轄は、安房、上総、下総、常陸の一部。明治初期の本県における藩県の変遷を物語る地である。 |
| 智恵子抄の碑 |
九十九里町 |
詩人で彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子が当町で療養していたことに由来する。「千鳥と遊ぶ智恵子」が全章刻まれている。 |
| 蕪木(かぶらぎ)古墳群 |
松尾町 |
朝日岡古墳を主墳とする前方後円墳6基、円墳16基の古墳群で、6世紀の築造とみられる。木戸川流域は有数の古墳地帯となっており、この古墳群はその一つで、6、7世紀の頃この地域を支配していた武社の国造の強大な勢力が推定できる。 |
| 殿塚・姫塚と芝山古墳はにわ博物館 |
横芝町 芝山町 |
横芝町から芝山町にかけての一帯は県下でも有数の古墳群地帯で約500基あるが、とりわけ大型な前方後円墳が、2基隣接して並び殿塚・姫塚といわれている。全国でもまれな形象埴輪の行列がほぼ完全な状態で発見され、葬列を表わすものとして有名である。 |
| 長柄横穴郡 |
長柄町 |
25郡324基が確認されている。内部は広く、棺座は高く排水施設や棺蓋を置くための施設、構造全体も見事である。壁面や天井部には線刻画も多くみられる。築造は7世紀末から8世紀初頭とみられる。 |
| 能満寺(のうまんじ)古墳 |
長南町 |
5世紀初頭の築造と推定される県内最古の前方後円墳。全長73,5mで後円部から舟形の木炭槨が発見され銅鏡、銅鏃、ガラス玉等が出土した。 |
| 官軍塚 |
勝浦市 |
明治戊辰戦争(1868〜69年)で、旧幕臣の榎本武揚は北海道函館で官軍に最後の抵抗を試みた。この時、寺尾九郎右衛門の指揮する鎮圧援軍が北海道に向ったが、勝浦川川津沖で大暴風雨に遭って難破し、200余人の死者を出した。この遭難者を埋葬供養したところ。 |
| 上総大多喜城跡と県立総南博物館 |
大多喜町 |
徳川家康の四天王の一人、本多忠勝が10万石で封ぜられ、築城した。土塁が残るほか、二の丸跡には、大井戸と薬医門が往時の面影を残す。本丸跡に大多喜城(総南博物館)が完成し、当時の姿を伝えている。 |
| 日西墨(にっせいぼく)交通発祥記念碑 |
御宿町 |
岩和田岬に立つ高さ17mの白大理石張りオベリスク型の碑。慶長14年(1609年)御宿沖で難破したスペイン領フィリピン総督ドン・ロドリゴ一行を村をあげて救助にあたり、これを時の大多喜城主が江戸に伝え、この史実を記念したもの。 |
| 源頼朝上陸地 |
鋸南町 |
治承4年(1180年)石橋山の合戦に敗れた頼朝が、相模国を発して小舟で安房に渡航したときに上陸した地点。勝山海岸の北にあり、今は陸続きであるが、かつては竜島という小島であったという。 |
| 里見氏の墓 |
白浜町 |
里見氏の始祖義実・成義2代の墓。里見氏初代義実は嘉吉元年(1441年)安房に上陸、文安2年(1445年)に安房国全域を平定したと伝えられ、房総里見氏の歴史を知るうえで貴重な資料。杖珠院にある。 |
| 日本酪農発祥地 |
丸山町 |
里見氏が創設した牧場で、江戸時代に幕府の直轄牧場になりインド白牛を放牧、その乳を使ってバターを作った。現在、牧場の一部が嶺岡乳業試験場になっている。 |
| 金鈴塚古墳 |
木更津市 |
7世紀ごろの前方後円墳で、全長95mと推定されるが現在墳丘はほとんど破壊され、一部を残すのみ。純金製の鈴の他多くの副葬品が発見された。 |
| 九十九坊(くじゅうくぼ)廃寺址(あと) |
君津市 |
7世紀末、白鳳時代に創建されたと考えられる古代寺院跡。伽藍配置は法隆寺式と想定されるが確実ではない。古代の歴史を知るうえで貴重な史跡。 |
| 弁天山古墳 |
富津市 |
全長約86mの大型の前方後円墳。後円部に竪穴式石室があり、3枚の蓋石のうち中央の蓋石の左右には、約20cmの縄掛突起様の造出しがあり、全国でも極めて珍しい様式とされている。築造は5世紀後半と推定される。 |
内裏塚(だいりづか)古墳群と
飯野陣屋跡 |
富津市 |
内裏塚古墳は、前方後円墳11、方墳1、円墳20基から成る。主墳の内裏塚古墳は、東京湾岸では最大の規模(長さ145m)の前方後円墳である。飯野陣屋は、江戸時代初期に保科正貞によって築造されたもので、日本三陣屋の一つといわれる。陣屋内に内裏塚古墳の一部が所在している。 |